昭和44年10月30日 朝の御理解
立教神伝
「この幣切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、呼びに来、もどり、願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来、農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業をやめてくんぬか。其方四十二歳の時には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりもまし、もの言われ相談にもなり。子供も連れてぼとぼと農業しおってくれ。此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き。」
これは天地の親神様が、教祖生神金光大神に、神頼み御頼みになられた。しかも懇々とある場合は諭し、またはある場合は神様の方が手をつかんばかりにして、頼み願うておられる。ね。そして難儀な氏子救済のための御神願とでも申しますか、その神願がこの立教神伝によって達せられる。その事を神様が願い、その事を教祖様が承知仕りましたと、これを受けて受けきって、金光教の信心が始まったわけです。
ですからこれを立教の神伝と申します、ね。次に天地書附がこれもまたお道の信心のまあ、御題目だと思われるま大変なものだと思います。「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日で頼め」と。おかげは和賀心にありと。和らぎ喜ぶ心にありと。これはあらゆるま宗教ですね、宗派といってもよいでしょう。おかげの基をやはりここに置いておるという事においては。
ほかの宗教と変わりはないと思うですね。不平を言うな不足を言うなとね。心に喜びの、いわゆる喜びが人間の幸せの基になるんだ、基礎になるんだと、ね。ですからこの天地書附に頂きます、その和賀心、どうぞ私の心に生神金光大神様、天地金乃神様一心に私の心に、ね、穏やかな心を頂かせてください、ね、喜びの心を頂かせてくださいと、ま、願うということですね。
それをその今月今日で頼めいとこう仰るのはもう、刻々をですね、ここんところを願うていくのだ、しかもこの和賀心というのには、これで良いというものがない。限りないものである。そこにまた、おかげも限りなく頂けれるわけなんですが、そういうおかげを頂くとしてです。ね、そのおかげがなら、どういうような事になってこなければならないかと言うて立教神伝、ここから初めてですね。
金光教の信心の、まいうならば独壇場的なものがあるわけでございますから、そのそこんところを頂かなければ、お道の信心を頂いておるということがいえんのです。信心させて頂いて段々自分の心が、和らいで来た。ね。信心のおかげでいわゆる有り難いまあ、日々が過ごさせて頂くほどしに段々おかげを頂いてきた。なるほどそのことを神様が喜んで下さることは間違いない。氏子が幸せになっていくことをですね。
けれどもそれでは他の宗教宗派と大して変わりはないのです。ね。そのおかげがここ立教神伝にあります、内容との繋がりということですね。立教神伝の、とのつながり、ね。どういうことでこういう信心が教祖の上に下がったか、そこからどういうことから立教されたかと。そこんところを教祖様御自身も、それこそ死んだと思うて欲を離して御取次ぎに一生をかけてくださった。
ね、神様の願いというのはやはり、最後の取次ぎ助けてやってくれとあります。しかもその取次ぎ助けてやってくれという、そのたすかられたらどういう事になるかというと、その神も助かり氏子も立ち行くという。氏子あっての神、神あっての氏子、繁盛いたし末々親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行く。ここに神頼みの、神意が私はあると思うですね。
末々親にかかり子にかかり、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行いていくというところに神様の悲願があるのです。神の悲願が。私そんな風に思う。親に末々親にかかり、子にかかりという所。ね。ここんところに私は、神意の大体はここにあるんだと。親が子供の助かりとか、子供の幸せを願わない親はありません。どうぞ幸せになってくれというのが、ま親の願い。
まあいうならば、この身はどんなになってもです、子供が助かってくれれよいというように、切実なものを親は子にかけます。そこでなら子供が段々立身出世いたしまして、幸せになる。成程親が子共が幸せになるということだけで、本当に幸せを親が感じれれるだろうか。確かにそうであったけれど、実際なら子供が幸せになっただけで親が幸せ、本当にそれで幸せだろうかね。
子供が幸せにさえなってくれりゃ、子供が幸せになってくれるという事があるでしょう。また親の幸せ、本当に意味においての親の幸せに繋がらなかったら、親はこんな切ない事はなかろうと。ね、天地書附に拝しますように、ね、確かに和賀心、おかげの基であり、その喜びのその基というものをです、信心によって段々頂いて、今月今日をありがたく生活させて頂いておる氏子をごらんになって、なるほど神様は喜んで下さらんはずはない。喜んで下さる。ね。
ところがそれだけではいけない。そこにですね親に掛り子に掛りという、カ、係り合いというものがです、ね、末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行かなければいけん。例えまあ分かりやすう言うなら、子供が立身出世をして沢山お金を儲かったと。お金持ちになったと。けれども親子供は親にお金を一つも与えない。親を見らないとしたらどういう事になりましょうね。親にかかり、子にかかりという事はない。
子供が儲け出したという事は、親が儲けだしたと同じ事でなからなきゃいけん。私共がおかげを頂いたということは、ね、神様もおかげを頂きなさったという、私共がままになるなら、神様もまたままになって下さったというおかげに繋がらなければ、あいよかけよで、ね、しかも、立ち行くと、末々立ち行くと言うことになっていかない。そこでお互いの信心の眼目というのがですね。
いかに私の願いが成就しえさえすれば、私の思いが成就しさえすればと言う様な事では、いけないことになってまいります。ね。その氏子の願いがです、親もいよいよ立ち行くという安心とでも申しましょうかね、を神様に受けてもらわなければ。ね。そこで願いの筋というものが、非常に大事になってくるわけでございます。ね、願いの筋いわゆる願いそのものが、筋道だっておらなければいけない事がわかります。
どうぞ健康にならせて下さい。どうぞ家庭円満におかげを頂かせて下され。どうぞ金銭のお繰り合わせを頂かせて下され、という例えば願いをしますよね。けれどもその願い願う筋道というものが、ここに必要になってくる。ただ氏子が健康になっただけで、金持ちになっただけで、家庭が円満になっただけで、なるほど親は嬉しい。神は嬉しい。ね、けどもここにそれがねその健康が、ね、そのおかげがです。
次の親の助かりに繋がっておらなければ、金光様のご信心のいわゆる本願、本当の神の願い、神願ということに繋がらないのです。そこで私共がご理解を受けて、そこを分からせて頂いて、そういう筋道だった信心をさせてもろうて、筋道だったおかげを受けて初めて金光教の信心の素晴らしいということが言えれると私は思うですね。先日久留米の光橋先生ところの御祭、御大祭の時に申しましたように、ね。
神様が本当のおかげを頂かせて下さろうとすると言う事はね、どういう事かと言うとね、今申します様に、自分も立ち行く事が出来れるおかげなんです。神様ご主人から言うと。本当のね神の願いが私共氏子の上に実現するという事はね。その中に自分の助かりね、いわゆる神も助かる事ができるというおかげが氏子の上に実現する。そこの見極めそこの見通しが出来た時にですね、神様の本当の御発動をおう事が出来る。
神様の本当のおかげを受けることが出来るという事がいえます。そこの見極めが出来なければですね、神様は喜んで、または安心しておかげを下さる事が出来る。まあ私共が拝ませて頂いておる神様はそういう神様なんだ。只氏子が助かりさえすればよい、という事の私は意味ですね。例えば教祖様は、人が助かる事さえできればとこう仰ったが、助かることさえできればというその助かりの内容というのはね。
金光教的なものでなからなきゃならない。金光教的助かりというのは、親に、親にかかり、子にかかり末々です、ね、その末々神様と氏子とが、いわば神人共栄というかね、共々に栄えていけれるというおかげなん。そこに金光教の信心があるという事。だからいかにその焦点というか、眼目というものがですね、筋道だっておらなければならないかという事になるわけです、ね。
そこで私共がまあ、色々練りだして、ね、いろいろ話に聞いて、練らせて頂いて、もうそれもなんですよ。そのもとの御教えにありますように「願う氏子におかげを授け、ね、理解申して聞かせ」とあるように私共は願うことによって、様々なおかげが成就する。この神様のおかげであろうと思われるようなおかげが段々頂き始められる。ね。ですからそていう事になる。
けれどもその次には、願う氏子におかげを授け理解申して聞かせというところがある。いわば天地の道理というか、ね、天地のご恩徳というか、そういう事もだけれども、もっと大事なことはですね、そのおかげを頂く事によって、神の実在を信じてくれという事。ね。おかげによって神の実在を信じ、はあ、神様って、この世にござるかござるか分からなかったけれども、はっきりござる事が分からせて頂いたらですね。
いわゆる理解申して聞かせと仰る、その理解がご理解が私共が分からにゃいかん。そのご理解が私共の身に段々着いて来る所からです。今日のご理解の所になって来るんじゃないでしょうか。ね。おかげ頂いて神様が、しかも天地の親神様と私共がおかげによって繋がった。おかげによって分かって来た。ならその分かって来たならその神様の願いはどこにあるかというと、末々という所末々親にかかり、子にかかりね、立ち行かせて頂くと言う所に神の願いというのがあるのだと。
分かったら、ならその神の願いの成就の為に、私共が一生懸命ならなければなきゃらんという事が分かります。それを私共の願いの為に、それを一生懸命になったったて、これはいけない事が分かる。だから私共は神の願いの成就の事を一心に願い、神様は、氏子の願いが成就することを一心に願うて下さる。そこにあいよかけよという事がいえるとこう思うのです。神の願いが成就する。ね、
神様が先ず、だから私共の願いとしては、ままになって下さるものでなからなければならん。そこでなら神様の願いというものがそのどこにあるかと。神願というものがね。それはね、世界の氏子が皆幸せになってくれ、人間氏子が助かってくれる所にまあ御座いましょう。御座いましょうけれどもです、なら私共一人一人の信心を頂いておるものがです。どの様な状態になった時に氏子が助かった時であるかという事です。ね。
神の願いは氏子の助かりにある。なら氏子が助かる、私共が助かったという時にはね、私共が助かっておるという事は、ならどういう事かと。それが天地書附和賀心なんです。ね。神様の願いというのは、私どもの人間氏子一人一人がです、いわゆる和らぎ喜ぶ心で日日生活をさせて頂くという事なんです。だからけれどもそれがですね、それが只自分よがりの、自分さえ助かればという。
自分さえ和賀心でおればというなじゃなくてです、それが神の願いという、神の助かりに繋がっておらなければならないと、いうところを根本としての和賀心なんだ。ですから、自分の喜びの心が、果たして神様に喜んで頂くような心に、どれほど繋がっておるだろうかと、いう事がいつも検討されなければならないことになります。だから、そのへんのところが、まあちょっと難しかような感じがしますですね。
けれども神の願いは確かにそこにあるのですから、なら私共そこんところを悟らしてもらい、神意を分からせてもろうてです、ね、私共が願うておるその願いそのものがです、果たして神の願いと一致するかどうかというところをその思うていかなきゃいけん。そこで、金光教の真の助かり、金光教で真に助かるという事は、ね、神の願いが成就して、そして後に私共の願いが成就するという段取りというか、そういう筋道だったおかげにならないことになる。
そしてそこには私共のいわば願いとしておった、その願いところではない、もっともっと素晴らしいおかげの世界が、そこからおかげの展開と申しますね。おかげの展開がなされてくる。無尽蔵とか無限とか、ね、限りないおかげに繋がるという事をです、私そういう事だと思う。私共の小さい、ね、いうならば浅い、狭い考えから生まれてくる願いというものは、じつにこれは小さなことである。ね。
神様の願いが成就して、そして私共の上に、私共の願いが、いや願い以上のことが、私共の上に展開されてくるときにです、ね、いよいよ神も助かり氏子も立ち行くという事になり、ね、末々繁盛いたすと仰るように、これなら限りなくおかげが伴うてくる世界があるのです。そういう世界に住むことが出来るのです。ね、だからおかげを受けて神様を分からせてもらい、理解申して聞かせと仰る。
理解を聞かせて分からせて頂いたらです、私共の願いの筋というものが、もう根本的に変わってこなければならん。ね。なるほど、痛い痒いがあっては家業出来難し、とこう仰るのですから、それこそ牛馬の事にいたるまで、ね、病気、商売なら商売繁盛のこと、ね、それは願わせて頂かなければならん。けれども、どこまでもそれを実意を持って願えと仰るのですから、それを実意をもってそれを願わせて頂くのですけれども、その願いの根本というものはです。
商売繁盛なら商売繁盛のおかげを頂かして下されい、と願うておるそこのものがです、その繁盛ということが、親神の助かりに繋がっておる願いでなからなきゃならないという事です。大変このへんのところを複雑な風に申しましたから、大変分かりにくかったかもしれません。ね、けれども私はね、私共の心の中に信心の喜びを頂かせてもろうて、それをおかげの受け物としていくという事だけならばね。
これは金光教でなくても良いのです。その天地書附である、天地書附ですね。いわゆる。今月今日で頼んで、自分の心中に喜びの、心を頂いていこうというその信心が、この立教神伝に、繋がっておらなければならないという事です。立教神伝そのものが神意であり神願なのです。ね、神の悲願を教祖金光大神に吐露しておられる。ね。それを金光大神が取次いで下さってある。
おかげを取り次いで下さるだけではない、いわゆる御教え、ご理解を取り次いで下さる。だからその御教えが分からせて頂いての和賀心。分からせて頂いてのおかげ。というだけに違うんです。ね。その立教神伝という、その神の願いというものがです、ね、分からせて頂いての天地書附だという事になります。どうでしょうか、自分の願っておることが、そういう神様の大きな願いに繋がっての祈りの内容であろうか。信心の内容であろうかと検討してみなければいけませんですね。
そしてギリギリ煎じ詰めるとどうなるかというと、なら神の願いはどこにあるかというと氏子の立ち行きという事にあるんです。氏子が幸せになってくれるという事にあるのです。だからこれは私共の側氏子の側としてです、そういう幸せになれる、私共が立ち行くようになった、というそのおかげがなら、神の幸せにいうなら神の助かりに、神の願いに繋がっておるか、いわゆるあいよかけよという事になっておるか。
神様が氏子の立ち行きを願うてくださり、私共が神のいわば助かりを願う。神様の願いが成就する。そこでなら、これはその、今の言葉で申しますとです、どうぞ神様あなたの願いが、あなたの願いが、私の信心の上に現れてまいりますようにという事になるのじゃないでしょうか。神様あなたの願いが、ね、また、あなたの願いが地上になるというてもいいでしょう。神の願いが地上になる。神の願いが、ね。
私共一人一人の上に神の願いがかけられる。ですからどうぞ神様あなたの願いが、私の上に現れてまいりますようにという願いなる。ね。ここんところを難しいごたるけれども、これを難しいというたら金光様のご信心はないです。そこでなら今度は受身、こちらは受ける状態はどんな状態になってくるかというとですね、どうぞ神様の願いが私の上に成就してくる、その成就の現れというものがです、そこに場合には腹の立つ問題があるだろう。場合は悲しい思いをすることがあるだろう。ね、
または痛い苦しい思いをすることがあるだろう。そのような姿で私共の上に現れて見えるわけなのですよ。ですからどんなに苦しいことがそういう願いを立てて私どもの上に苦しいことが起こって参りましても、はあ、今ここに神の願いが私の上に現れておるんだと、いう事になるでしょう。だから、そこんところを分からせて頂く為にこの和賀心が必要なのです。和らぎ喜ぶ心。
どのような事があってもその和らぎ喜ぶ心で受けさせて頂く心が必要になってくるわけです。ね、神の願いが、氏子の上に実現するということはもう結構毛だらけといったような事だけが、自分の上に現れてくるのじゃない。いや神様そんなことはもうごめんですと、もうそれはいりませんというような事が私共の上に起きてきてもです、それは、神様の願いが、そこに実現しておる姿だと悟らせて頂いたらです、難もまた有り難いという事になる。いわば、難あって喜べという事にもなる。
そこから私共がね、晴れ晴れしい、いうならめぐりのおとり払いを頂いた清々しい麗しい心でです、おかげを頂いて行くことが出来る。そこから生まれてくるおかげのなかで住まわせて頂くという、そこがです、神の願いなんです。よくその神様の願いといったような事を御用すりゃ助かると、いったような風に申しますね。どうぞ、儲けださせてくださいと。その代わり自分一人だけで一人占めはいたしません。
半分は神様、あなたにお供えしますと。それで神も助かるかのように思うておる人がある。ね、もうその辺のところは非常に微妙なところですから、よく分からにゃいかん。今日私が申しましたようなところがです、根本になってのいわば、おかげでなからなければいけん。ね。神様の願いが私共の上に現れる。その、現れというのは様々。決してよいことばかりじゃない、嬉しい事ばかりではない。はがいい、ね。
腹の立つ情けのないような事柄も私共の上に現れてくる。それを小さい小さい事がらにとらずに、それを受けていくことになりますとです、ね、そのことが神の願いがここに成就しておるのですから、自分の小さい願いじゃない、神の願いが成就しておるのであるから、このくらいなことで神様の願いが成就するのならばです、ね、このくらいの修行なら、いうならば、文句は言えません。またはこんくらいな修行ならばいといませんという事になってくるわけですね。
そこに神様の願いの成就のいわば、ね、ま、第一歩でしょうね。神様の願いそこでなら、そのことを私のことを皆さんが思うて下さると大体分かるです。ね。そういう願いの元に一生懸命信心、今までは何十年間という間、おかげおかげで何十年間過ごしてきた。こういうことじゃいけない事が分かってきた。そこで、本当の信心を求めての信心にならせて頂くことに精進させて頂いたら、どういうことかというと。
今度は反対に私の上に次々と難儀な事が起ってきた。信心しよるのにどう言う様な事であろうかと言う様な事が起きてきた。それが神の願いの成就であるという事が分かってきて、神様がこんなにして、私に力を与えて下さるというお礼心になってきた。そういうものが自分の身に付いてしもうたころにはです、ね、それこそね、椛目時代夢にも思わなかったような事が実現してきた。
そしてここ合楽に繋がってきた。ね。だから私の信心過程と、いったものを皆さんが、知っておられるますから、それを思うて下さればいいわけですよ。だから皆さんの上にも、矢張り同じ事がいえる。神の願いが皆さんの上にまず実現。だから神様の願いがまず、実現しなきゃいかん。その後に私共の願いが実現するという、そのおかげというのは、ね、いわゆる無尽蔵。
限りのないおかげになる事が出来る。ただ、私ともが和賀心を頂いて、和らぎ喜ぶ心を頂いて、その事だけにおかげ現れてくるというおかげではです、神も助かりという事に繋がらない。末々ということに繋がらない。ね、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行くという事にならない。今日は天地書附と立教神伝の、ま、いうなら繋がりといったようなことを。
大体聞いて頂いた積りですけれどどんな風だったでしょうか。そこに金光教の信心のいわば独壇場と言った様なものを感じます。どうぞお互いの願いの内容というものを検討してみなきゃいけません。ね、同時にその願いも筋道だっての願いというものになっておるかどうかを検討しながら、願うていくという信心でなからなきゃならんと思うですね。
どうぞ。